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2018-02-09

原木中山駅付近に市川市の公的施設が密集している理由

※うっちーさん提供画像

読者の方から情報提供がありました。

<情報>

東西線 原木中山駅付近の市境についてです。
原木中山駅は船橋市にあり、周囲の市境は長方形に近い形で南に突き出ている。三方を市川市に囲まれており、西側が田尻(たじり)、南側が高谷(こうや)、東側が原木(ばらき)という地名となっている。
だが、このエリアには我々(当方、市川市民です)には解明出来ない謎がある。
原木交番、市川市立信篤(しんとく)図書館、市川市信篤公民館の住所は市川市なのである。船橋市の中でポツンと、建物単位で市境が変わるのである。まさに四面楚歌状態。近くに信篤幼稚園や信篤小学校があるが、こちらはちゃんと市川市エリア。
ちなみに、原木交番の住所は原木ではなく高谷である。これも非常に紛らわしい。
とはいえ、原木交番や信篤公民館、信篤体育館、信篤図書館など、こんな市境も曖昧なエリアに公的機関をこれほどまでに密集させたのはなぜなのか?ぜひ取材をお願い致します。
ちなみに、信篤信篤とここまで何度も言ってきたが、市川市に信篤という地名は存在しない。なのになぜ、これほど多くの公立施設に堂々と名付けられているのか?これも謎。

【情報提供者:うっちーさん】ありがとうございます。

皆さんも気になる事やオススメのお店などあれば「情報提供フォーム」よりどしどしお寄せください!

情報提供フォームはこちら

 

うっちーさんがご指摘されているエリアは、住所でいうと千葉県船橋市本中山7丁目22番地のエリア。

確かにGoogle Mapで上記住所を調べてみると、船橋市の中に市川市の住所である原木交番・市川市立信篤図書館・市川市信篤公民館が、ぽつんとあるように見えますね。

そして市川市の公的機関が密集しています。

こんな市境も曖昧なエリアに公的機関をこれほどまでに密集させたのはなぜなのか?

上記のうっちーさんの疑問について、市川市役所に確認してみましたが、その場では明確ことはかわりませんでした。

 

謎を解く鍵は「市川市立信篤小学校」?

これはあたり編集部による憶測になりますが、今回の謎を解く鍵は「市川市立信篤小学校」が握っているのかもしれません。

調べてみると、以下の公的施設の住所はすべて「市川市高谷1−8−1」なんです。

・原木交番

・市川市立信篤図書館

・市川市 信篤公民館

・市川市立信篤幼稚園

そして、「市川市立信篤小学校」の現在の住所は市川市原木2-16-1ですが、昭和53年7月10日以前は「市川市高谷1−8−1」にあったみたいです。

つまり、もともと市川市立信篤小学校があった跡地に、市川市の各公的機関が建てられたことになります。

そのため一部のエリアに公的機関が密集してしまったのではないでしょうか。

 

「信篤」という名前は市川市立信篤小学校から広がった?

先ほどまでのことを整理してみると、おそらく以下の図の赤枠で囲まれているところがかつて「市川市立信篤小学校」があった場所だったと考えることができます。

原木交番以外は全て「信篤」という名前がついていますね。

(読み方は「シントク」)

うっちーさんの言うとおり「信篤」という地名は市川市内には無いようです。

ではどこからきたのでしょうか?

これも「市川市立信篤小学校」が鍵を握っているようです。

市川市立信篤小学校はもともとは明治6年に「行徳小学校原木分校」として設置されました。

そして、明治29年に「信篤尋常小学」に改称。

ここで初めて「信篤」という名称がでてきました。

その由来については市川市立信篤小学校のHPに次のように記載されていました。

【学校名『信篤』の由来】

中国の書物[論語]の中の「篤信好学・守死善道」(深く信じて、学問を好み、命がけで道をみがく)から引用したと言われています。

http://www.shintoku-syo.ichikawa-school.ed.jp/enkaku.htmlより引用

「信篤」は中国の書物からきた言葉だったんですね。

そして、何かの理由で信篤小学校跡地に建てられた建物にも、「信篤」という名称が継承されたのだと考えられます。

 

以上が、鎌ヶ谷船橋あたり編集部の憶測です。

もし「詳しいこと知ってるよ」という人いれば、下記の情報提供フォームより教えてください。

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